歓喜力部活団


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 10年ほど前からスポーツ行事などで、区大会などの地域大会や教育委員会主催の市大会,県大会などがめっぽう減りはじめた。かわりに教育委員会からはずれた(協賛はしているが)任意団体である○○協会などが受け皿となっての有料の大会が増えてきた。

 理由は明白で、金欠なのである。公教育に対する、予算削減が市町村でつづき、会場を借りる金も、道具も、人員も減った。子どもも減って校舎の教室は、特別教室に変わった。どうしてもスポーツをやりたい生徒は(かつてもそうであったが)さらに、多くの自己資金が必要となった。遠足や修学旅行の集金が滞る地域では、練習試合や公式試合の交通費やもろもろの諸費用がおいそれと出せるものではない。

そして今では生活の苦しい層で、部活動を継続させるのはとても難儀なことなのだ。かつて悪ガキが体育会系部活動で活躍し、まっとうになったという神話があったが、それはほんの一握りのことであって、実際には上部大会まで勝ち進み成果をあげているのは、経済的余裕があり、親の子育て意欲の高い、エリート層なのである。

また、たいていの部活動では悪ガキはやっぱりお荷物なのであって、できればそういうやつは退部して欲しいと、成果をあげる優秀な顧問ほど強く期待?しているのである。

とはいえ、中学校にはスポーツ系部活動が幾分残っている。しかし、新規採用を10年近くしなかった付けが回ってきて、教職員は高齢化し部活動の面倒を見るまでの身体的・精神的余裕が枯渇した。

ではなぜ部活動はいまだ、存続しているのか?顧問をやっている人の、そして部活動に参加する生徒のモティペーションはどこにあるのか?

この理由の説明をするために、「歓喜力部活団」という造語を使いたい。

この言葉元々はナチスが,青少年を取り込んでいく手段として,スポーツや文化活動,奉仕活動などをすすめるなかで,喜びを得ながら力をつけていき心を一つにして愛国心を高めていく「歓喜力行団」(クラフト・ドゥルヒ・フロイデ)からきている。

部活動は競争や闘争がふんだんに内包され,勝利するためには,部の結束力や顧問の指導力,それに対する盲目的な追従が求められる。心が一つになること(ファッシ=束が一つになるという意味のイタリア語)その結果,より大きな勝利が手にはいること。これは部活動に関わるもの全員の喜びである。たとえ,大きな勝利に結びつかなくてもその行為の中に大きな喜びがある。

私も地方大会で何度か優勝したが,この喜びは生徒と友に共有できる「歓喜」だ(教室の中では味わうことのできない)。これが,土日,朝練,夜練に生活のすべてを捧げる原動「力」すなわち「歓喜力」となった。

スポーツの最高峰となるオリンピックやワールドカップはかなりきな臭く,金・クスリのにおいもして,怪しいものになってしまったが,学校部活動のレベルからごく少数の優秀選手が飛翔し,スポンサーもついて強く有名になればなるほど,選手はオリンピックやワールドカップを目指す。

底辺にある学校部活動と一流選手とのあいだに太いパイプなど微塵も存在しないが「歓喜力」だけは太いパイプで繋がっている。彼らは(一流も普通も)スポーツを通じて得られる「歓喜」という麻薬に酔いしれたいのだ。麻薬は0.01mgでもちびちび,毎日うちつづければ「歓喜」はやってくる。ドーパミンがドバァーっと出て,精神は高揚する。

みんなで「歓喜」する。そんな力を小学校ぐらいから時間をかけて熟成していく,これこそが部活動の本質的なあり方であり,「歓喜力部活団」と私が名付ける理由なのだ。

「歓喜力部活団」は,しかし,この歓喜を共有しようとしない者や元々不可逆的に運動能力などが身についていかない者(運動音痴)には一変して「哀号部活団」に成り変わる。部活内のいじめや差別,嫉妬やグループ抗争などは,「歓喜力部活団」が上位に位置し,そこからふるい落とされた負け犬集団が「哀号部活団」として負の連帯をしたときに常に発生するのだ。

近頃,部活が停滞してきたのは「哀号部活団」が「歓喜力部活団」を数的にも質的にも凌駕するようになったからだ。歓喜を「共有」するという力が減衰し,これが「個」のものに置き換わった。両者の力関係の綱引きは「哀号部活団」のほうに有利になってきた。しかしながらこの事態は新しい局面を与えることになる。

つまり「歓喜力」はついには希少性を持つということだ。すると,この感性が階層的には上等なものになってきた。

例えば部活動がやめられない教師は,上等な文化活動に関わっているという感性をもつに至ったからだ。

部活動を求める生徒。そしてそれを継続できる生徒。彼らは親の意向を大きく背に受け,自身も部屋でゲームにうつつをぬかす子どもとの違いを強く意識しながら「歓喜力部活団」に吸い寄せられていくのである。

親の子どもへの教育資本投下にも「歓喜力部活団」と「哀号部活団」とのあいだで差が出てくる。資本力のない親が前者であった場合,部活動において大きな成果を子どもに求める。成果がでず,しかも学習成績が芳しくない場合,やめさせる方向へと進む。後者の場合,こども自身がさぼりに向かい自然に部活動から離れていく。「歓喜力部活団」は組織の凝集力を保つが,「哀号部活団」は部活動から離れた瞬間空中分解する。

「歓喜力部活団」は特権化する。この集団に所属し,「喜び」を共有することは,身体能力に優れ,まじめであり,教育資本に余裕があり,この資本を部活動に投下することにプラスの意義を見いだす保護者がいて,そして,本人がこの集団のメンバーに受け入れられて初めて,この特権を享受することができるのだ。

歴史上ファシズムは「歓喜力行団」を一般大衆の統制の手段とした。ある意味壮大な歴史的戦術行為であった。それは,サッカーワールドカップやオリンピックのときに,にわか愛国主義者になるような今の柔い一般大衆とは違って,継続性がありそれが,侵略的な戦争において大いに役立った。しかし,その亜種と思われる「歓喜力部活団」は現在においてはついぞ大衆化せずその多くが「哀号部活団」となって分解し,溶解してしまう。

しかし,「歓喜力部活団」は今後とも少数ながら,生き残りその中からエリートが輩出し多くの富を手にすることができよう。教師も生徒も常にこの集団に所属していることで上部に存在するのであり,あるいはそういう幻想を共有するのである。

もちろん「歓喜力部活団」はスポーツに限ったことではない。企業内組織や企業間ネットワークにおいても「歓喜力企業団」は存在する。それが文化活動になれば「歓喜力ボランティア団」「歓喜力市民運動団」「歓喜力フェミニズム団」「歓喜力そば打ち団」「歓喜力自分探し団」「歓喜力オタク団」など枚挙にいとまがない。

しかし,その他方でかなり多数の「哀号部活団」が,いやその変種が「哀号ワーキングプア団」「哀号引きこもり団」「哀号下流団」「哀号かまやつ団」などの変種が生成されてくるのである。


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